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* 富山の薬売りに学ぶ事業スピリット(第1回) *


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【 富山の薬売りに学ぶ事業スピリット(第1回) 】 〜先(せん)の巻〜

 地域振興の先駆者の足跡を追う (「企業診断ニュース」2010年2月号掲載)

1.富山の薬売りとは

 富山県というと特産物や観光名所などから連想されるものがいくつかあるが、「くすりの富山」が一つの典型的なイメージではないだろうか。確かに現在富山県は、医薬品の生産額において埼玉・静岡・大阪に次ぐ全国有数の県である。そのような富山が誇る医薬品産業は、いわゆる越中富山の薬売りとして、売薬(ばいやく)さんと呼ばれて親しまれた薬の行商人の活動に由来する。世代にもよるが子どもの頃、紙風船などのおまけを携えて巡回に訪れる売薬さんを楽しみにしていた方々はいらっしゃることと思う。


 売薬さんこと富山の薬売りは、「置き薬」と言われるその商法に特徴がある。薬箱を顧客の家に預け、定期的に顧客の家を訪問し、薬の補充や古くなった薬の交換など薬箱の維持管理を行なうことを基本とする。特徴的なのは、顧客が実際に薬を使った分だけの代金をいただくことだ。


 この商法は、今から300年以上前の江戸時代に生まれている。そして今も現役の商法である。法令上「配置販売業」と言われる置き薬の従事者は富山県内で1500名ほど、全国では23000人ほどが活動中だが、高齢化などによる廃業で漸減している。一概に時代遅れの衰退産業ともいえず、株式会社で配置販売業を始めた興味深い創業事例や、国際協力の目的で置き薬の商法を海外に伝えた意義深い事例がある。また近時、薬事法の大きな改正があって、医薬品販売業から目が離せない状況となっている。これらの現代的状況は、機会を改めて論じたい。


 今回は「地域振興の先駆者の足跡を追う」と題して、富山の薬売りがたどった道を振り返る。前段では、地場産業としての富山の薬売りの成り立ちを描く。後段では現代の中小企業施策を切り口として、富山の薬売りの特徴を捉える。

2.富山の薬売りの成り立ち

(1) 前田正甫(まさとし)の逸話

 江戸時代前期の1690年、江戸城での会議の折り、三春藩(現在の福島県の辺り)の藩主が急病になったという。富山藩二代藩主の前田正甫がふところに携えていた反魂丹(はんごんたん)を勧めたところ、三春藩主はたちどころに回復したという。魂が返る丸薬(蘇生薬)という意味をもつ反魂丹は、識者から処方を得た前田正甫が自身の腹痛に備えるため常時携帯していた。この事件をきっかけに、反魂丹の薬効は全国に知れ渡ったという。


 諸国の大名に販売を請われ、済世救民の志が強かった前田正甫は、これを機に富山藩から全国各地へ薬の配置員を派遣したと伝えられている。富山の薬売りは江戸時代から現在に至るまで、「先用後利(せんようこうり)」を旨としている。その心は用が先で利は後、つまりは病を治すのが先で、利益は後でよろしい、という基本理念に立っている。

(2) 富山藩の成り立ち

 富山藩二代藩主の前田正甫は、2002年のNHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の主人公前田利家の曾孫(ひまご)に当たる。富山藩は、加賀藩の支藩(分家)として生まれた経緯をもっている。つまりは加賀百万石の弟分であるが、富山藩の石高は十万石にすぎない。もともと加賀藩は百二十万石もあって、現在の石川県と富山県を包摂する広大な領地を治めていたが、諸事情から前田家の三兄弟で領地を分けることになった。1639年、(新)加賀藩および富山藩と大聖寺(だいしょうじ)藩が誕生した。


 ところが領地は三等分されることなく、長男が継いだ(新)加賀藩が大半の領地と港などの交通の要衝を受け継ぐ形となった。富山藩が与えられたのは、富山平野の中央を流れる神通(じんずう)川に沿う細長い領地にすぎなかった。神通川は、高度経済成長期には公害病(イタイイタイ病)の川として住民を苦しめることになるが、近代以前はしばしば氾濫を起こす暴れ川であって、決して治めやすい土地とはいえなかった。流域の平野部は低湿地が多く、工芸作物などの栽培に適さない水田単作地帯となっていた。

(3) 薬売りを生み出した条件

 富山藩は、分藩といういわば前田家の企業再編で生まれた弱小藩である。宗藩(本家)である加賀藩と徳川幕府との二重支配に堪える財政力の強化、および水田単作であっても農閑期に収入を得ることができる地場産業の育成という点から、早急な経営革新が求められていた。経営革新の鍵となったのは、新商品の開発と商品の新たな販売方式の導入である。端的には、薬の開発と置き薬の商法が功を奏した。前田正甫の逸話については真偽が定かでない部分もあるが、前田正甫の先鞭に始まり、歴代の藩主が地場産業として保護および統制を図って富山の薬売りが確立したことは確かである。


 また地誌的な条件としては、いわゆる立山(たてやま)信仰の衆徒による護符や薬の頒布において、使った分だけ代金をいただく商法の原型が行なわれていたことを指摘できる。立山連峰のふもとに位置する富山藩は、いわば地元にあった事業シーズを地場産業まで高めたことになる。映画「劔岳 点の記(つるぎだけ てんのき)」では、立山連峰の山々を畏れ敬う様子が、明治時代の測量事業との絡みで描かれているのでご覧になられたい。


 そして地理的には、陸海の交通の便が発達していたことも行商人にとって幸いした。富山藩は、日本海沿いの北陸街道と山越えの飛騨街道との結節点に位置する交通の要衝にあった。また海上交通は、北前船(きたまえぶね)と呼ばれる和式の大型帆船による日本海航路の発達によって、北は北海道から南は鹿児島まで航行が可能となっていた。

3.現代の中小企業施策の切り口でみる富山の薬売りの特徴

(1) 地域資源活用

 地域資源の活用という観点から見ると、実は原材料は地元産ではなかった。当時はもちろん化学合成された物質ではなく、動植物などの天然資源から得られる有効成分を薬にしていた。天然資源の原材料は薬種(やくしゅ)と呼ばれて、原則的に輸入品を用いていた。大陸で採れて中国(清王朝)から長崎の出島を経由して大坂の薬種問屋に渡ったものを、富山の薬種商が吟味して仕入れを行なっていた。


 輸入物の上質な原材料を用い、藩内では厳格な品質管理を行なうことで、よく効く富山の薬という信頼が維持されていた。ちょうど鉱物資源を輸入して製品を輸出する今の日本国のように、富山藩は一種の加工貿易を行なっていた。


 さて富山の薬売りは原材料で地域資源の活用を図れないとなれば、何を活用したのか。一つはもちろん産地技術としての製剤技術である。もう一つは、観光資源(立山)の鉱工業品(薬)への転用ともいえる活用方法があった。つまりは富山藩の庇護のもと、立山信仰の畏れ多い霊峰立山のふもとで作られる、薬効あらたかな越中富山の反魂丹という地域ブランドを訴求する働きである。

(2) 農商工連携

 富山の薬売りは、もともと農閑期に収入を得る手段として生まれたものである。それゆえ薬の配置員となった行商人は、身分上は農民であった。田植えの時期には帰郷しなければならず、旅先で店を構えることなどは許されなかった。都市部で富を蓄えて豪商となった近江商人などとは対照的であった。そして売薬行商人は、富山の薬種商から仕入れた原材料によってみずから薬の製造を行ない、それを携えて行商した。


 つまり富山の薬売りは、農民であるとともに、行商人として商業者の働きをし、薬の製造を通じて工業者としての働きもした。連携というよりも、同一人が農商工の三者の役割を果たす形態であるが興味深い。


 なお、人・物・金の行き来が厳しく制限されていた江戸時代において、富山の薬売りは知識・技術や情報の伝達者の役割をも担っていた。とりわけ稲作に関する知識・技術については、富山の薬売りが農業指導員のような働きをしていたことが知られている。


 地域資源活用・農商工連携

(3) 産学官連携

 企業と大学と行政が連携するのが現代の産学官連携であるが、江戸時代においては富山の薬売り版の産学官連携とも呼べる社会的な仕組みがあった。


 まずは「官」部門で特徴的なのは、「反魂丹役所」の存在である。これは富山藩の半官半民の機関であって、奉行所の管轄下にあった。売薬の品質を取り締まることや、行商人の旅先の諸藩や加賀藩との関係調整や、御役金(ごやくきん)つまり藩への上納金の徴収などを行なう役割を担った。


 そして「産」部門では、仲間組による統制が挙げられる。これは同業者の組合であって、営業の独占、仲間内の融資や道中の同一行動などでの相互扶助、値引きの制限や重配置(一人の顧客に複数の配置員がつくこと)の禁止などの相互統制といった機能をもっていた。


 「学」部門については、富山藩では草の根の寺子屋における実業教育が盛んであった。旅先で記帳などを一人でこなす必要から読み・書き・そろばんに力を入れるとともに、言葉づかいや立ち居振る舞いなどのビジネスマナーの習得も行なわれた。

(4) ソーシャルビジネス

 近ごろ、社会起業家あるいはソーシャル・アントレプレナーなどと呼ばれる社会貢献型の事業活動が注目を集めている。


 この点、富山藩の取り組みを見れば、社会事業の先駆けといってよい。済世救民の志のもと、富山藩の財政を潤すとともに、地場産業に従事する者の収入を生み出し、薬の配置を通じて人々の健康に寄与した。三者がそれぞれ便益を得る形となっている。


 明治時代になると、職業選択や経済活動の自由に伴って、地場産業で蓄えた富を活用する売薬資本家の活躍が目立った。売薬資本家は他府県の先進事例を参考にして、銀行業・電力事業・繊維業などの近代産業へ投資を行なった。例えば北陸銀行や北陸電力(いずれも本店は富山市)は、売薬資本に由来する代表的な企業である。銀行業については、置き薬は顧客に薬箱を預けることから先行投資が必要であり、資金需要に応じるべく金融が発達した背景がある。富山の地方銀行や信用金庫は、薬売りの金融機関に由来している。


 そのほか売薬資本家は、商工会議所などを通じた地域の経済活動、国会議員や地方議員となっての政治活動、学校の設立や奨学金などによる教育活動等々、地域の社会的活動に積極的に参画したことで知られている。

【 富山の薬売りに学ぶ事業スピリット(第2回) 】 〜用(よう)の巻〜

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